子どもの頃の私は、どれだけ頑張っても褒めてもらえなかった。
「よくできたね」の一言が欲しくて、
それだけで報われるような気がしていたのに、
いつもその言葉は届かなかった。
この記事では、「褒められなかった」ことが心に残した影響と、
そこから少しずつ立ち直っていった私の気づきを書いていきます。
テストで良い点を取っても
小学生の頃、テストでいい点を取ったことがある。
答案用紙をぎゅっと握りしめて、母に見せたい気持ちと、どうせ見てもらえないだろうという諦めが混ざっていた。
母は私に興味がなかったから、テストを見せたことはほとんどなかった。
たまに機嫌がいいと褒めることもごくまれにあったが、基本的に期待しても無駄だった。
何を頑張っても褒めてもらえない。それが「当たり前」になっていた。
だから心の中で自分を責めた。
「やっぱり私なんてダメなんだ」
褒めてもらえると思った小さな期待は、何度も裏切られて消えていった。
「頑張ったね」と言ってもらえないたびに、
“頑張っても意味がない” という声が心の中に積もっていった。
家の中で当たり前になっていたこと
友達の家に遊びに行ったとき、友達が親に「よくできたね」と頭をなでられているのを見た。
その瞬間、胸がぎゅっと痛んだ。
羨ましさと同時に、「私はきっと、あんな風に喜ばれる存在じゃない」と思った。
私の家では、頑張っても当たり前。
少しでも失敗するとすぐに責められる。
少しでもできないことがあればヒステリックに怒られる。
できていることより、できてないことのほうが何倍も問題だったのだ。
努力が認められることはなく、
「どうせ何をしても無駄だ」と思うようになっていった。
褒められなかったことが残したもの
褒められなかった子どもは、「自分には価値がない」と思い込むようになる。
私もそうだった。
何をしても安心できない。
人の顔色を見て、失敗を恐れて、常に緊張していた。
「できて当然」という空気が、自己肯定感を育てる前に押しつぶしてしまった。
その癖は大人になっても消えず、ちょっとしたことで「また失敗したら見放されるかも」と怯えてしまう。
「頑張る」が“当然”の家では、安心する場所がどこにもなかった。
誰かに認められないと存在してはいけない。
そんな思い込みが、私の中に根づいていた。
今だからわかること
大人になった今でも、褒められると戸惑ってしまう。
「本当にそう思っているの?」と疑う自分がいる。
褒められるのも褒めるのもいまだに苦手だ。
でも少しずつ気づいてきた。
「褒められなかったのは、私に価値がなかったからじゃない」
あれは母の問題であって、私のせいじゃなかった。
そう思える瞬間が増えてきたとき、心がほんの少し軽くなった。
あの頃の私に、誰か一人でも「よく頑張ったね」と言ってくれる人がいたら。
そう思う気持ちは今も消えないけれど、今の私はその役割を自分にしてあげたい。
今はもう、あの頃の母に褒めてもらうことはできない。
でも、あのとき欲しかった言葉を「自分に」かけられるようになった。
「よく頑張ったね」
そう言えるのは、今の私自身だから。
同じように悩んでいるあなたへ
もしあなたも「褒められなかった子ども時代」を抱えているなら、それはあなたのせいではありません。
認められなかったのは、あなたに価値がなかったからではなく、周りがそれを伝える余裕を持てなかっただけです。
あなたが頑張ってきたことは、本当にたくさんあったはずです。
だから、どうか自分を否定しないでください。
小さな努力や頑張りを、自分で「よくやった」と認めてあげてください。
この記事が、あなたが少しでも自分を肯定できるきっかけになれば嬉しいです。
あなたの優しさや努力は、確かに誰かの希望になっています。


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