母との関係の中で「私が悪い」と思い込んで生きてきた。記憶が揺れ、自分を責め続けた日々を振り返りながら、感じたことを否定せずに受け入れていくまでの心の変化を綴ります。
揺れる記憶
母は何かトラブルが起きた時、自分が飽きるか納得するまで何度も同じ話をする人だった。
相手にどんな事情があろうと関係ない。自分が気に入らないと思えば口撃する。
自分の勘違いや思い込みでも関係なく、一方的にまくしたてる。
そんな母が嫌いだった。
私は母の所有物の認識だったはずなので、私が何かした時には特に容赦なかった。
母の理論は多分おかしいのだろうと思うが、
ずっと一方的にまくしたてられていると母の言っていることが変なのか、
実は自分の方が変なのか分からなくなる瞬間がよくあった。
自分の受け取り方がひねくれていただけで、
母は普通の人だったのではないか──そんな疑いが胸をよぎることもあった。
「普通の家庭ではなかった」という確信はある。
けれど「そこまでおかしくなるほど変な家庭環境だったのか」と問われると、自信がなくなるのだ。
思い返せば、友達の家に遊びに行ったときに「うちは違う」と強烈に感じたことがある。
友達のお母さんは笑顔でお菓子を出してくれて、何気ない会話の中にあたたかさがあった。
それがすごく羨ましかった。
帰り道、胸の奥にぽっかり穴が空いたような感覚を抱きながら「うちって普通じゃないのかもしれない」と気づかされた。
それでも、自分の記憶が本当に正しいのか、誇張されているだけではないのかと、今でも心が揺れる。
自分を責める癖
毒親のもとで育った人が共通して抱えるのは、「悪いのは自分だ」と思い込んでしまう癖だ。
子どもは親を否定できない。自分のすべてが親だからだ。
だから「親が変なのかも」と感じるより先に、
「私がダメだから怒られるんだ」
「私が受け取り方を間違えているんだ」と、自分に原因を押し付けてしまう。
私もその一人だった。母に叱られたとき、心の中で「私に原因があって怒られるんだ」と繰り返していた。
たとえ理不尽な言葉であっても、親を否定することはできなかった。
理不尽な叱責でも、反論することはできなかった。「母が変なんだ」と思うよりも、
「私が悪い子だからだ」と思い込む方が子どもにとっては安全だったのかもしれない。
でもその積み重ねは、大人になってから私を苦しめ続けている。人間関係で少しうまくいかないと「私が悪いんだ」と即座に考えてしまう。心のクセは根深く、無意識に自己否定へと結びついてしまうのだ。
感情は真実
けれど、大切なのは「感じたことはすべて真実」だということ。
「寂しかった」
「怖かった」
「大事にされなかった」
その気持ちは、母がどうだったかに関係なく、間違いなく私が体験した現実だ。
母の言動が「普通」だったのか、世間的に許容される範囲だったのか──それを証明する必要はない。
大切なのは、子どもの自分がどう感じたか。そこに嘘はない。
「母は普通だったのかも」と揺れるたびに、自分の感情を否定したくなる。
けれど、涙を流した自分、胸がぎゅっと締めつけられた自分が確かに存在した。
それは私だけの真実で、他人に否定されるものではない。
揺れながら進む
母を「変だった」と言い切ることにも、まだ迷いがある。
でもその迷いも含めて、今の私のリアルだと思う。
揺れるたびに「感じたことに間違いはない」と自分に言い聞かせる。
「寂しかった」「つらかった」と素直に認めることは、弱さではなく強さだと、今は思えるようになった。
自己否定の癖は一朝一夕でなくならない。
ふとした拍子に「やっぱり私が悪いんだ」と考えてしまうこともある。
けれど、そのたびに「待って、本当にそう?」と立ち止まることができるようになった。
その小さな積み重ねが、少しずつ自己否定の鎖を外していくのだと思う。
揺れながらでも進んでいくこと、それこそが私の歩みそのものだ。
同じように揺れているあなたへ
もしあなたも「自分の記憶は間違っているのかもしれない」と揺れ続けているなら、
どうか自分を責めないでください。
誰かがどう見ても「それは普通じゃない」と言い切れることよりも、
あなたがその時、寂しかった・怖かった・つらかった──その感情がすべてなんです。
記憶が曖昧でも、感じた痛みは嘘じゃありません。
たとえ「自分が悪かったのかも」と思ってしまっても、
本当は、ただ愛されたいだけの小さなあなたがそこにいただけ。
その気持ちを否定しなくていいんです。
揺れても、立ち止まっても、また少しずつ前に進めばいい。
揺れながらでも生きている今のあなたは、それだけで十分強い。
この記事が、そんなあなたの心を少しでも優しく包むものであったなら嬉しいです。


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