「家族で出かける」──そんな当たり前の記憶が、私にはほとんどありません。
この記事では、子どもらしい時間を過ごせなかった幼少期のこと、
そして今だからわかる「安心」について書いていきます。
遊びの記憶がない幼少期
子どもの頃、友達が「家族で遊園地に行った」「動物園でアイスを食べた」と話しているのを聞くと、胸がきゅっと締めつけられた。
私にはそういう思い出がほとんどなかったからだ。
休日に「どこかに連れて行ってもらえる」という感覚がなく、家族と楽しく出かける経験は、私の中にぽっかりと空白のまま残っている。
長期休みはいつも祖母のところで過ごした。祖母の家はいつも誰かがいて、そこでだけ安心して過ごせたのだと思う。
連れて行かれたのはパチンコ屋
「出かける」といえば、行き先はほとんどパチンコ屋だった。
当時はまだ子どもが出入りしてもいい時代で、タバコの煙で曇った空気の中、私は長時間座らされていた。
ピカピカ光る台と大きな音をただ聞きながら時間を潰すしかない。
不憫に思ったのか、知らないおじさんからチョコレートをもらったこともある。
同じように連れてこられていた子どもと遊ぶのが唯一の楽しみだった。
でも一人、また一人と帰っていき、最後まで残っているのはいつも私だった。
「遊びに行く」ではなく「付き添わされる」。
楽しさよりも退屈さ、そして「いつまで待てばいいの?」という絶望感だけが残った。
長い時間、車の中で眠っていることも多かった。
子どもらしい思い出の欠落
本当は、動物園でソフトクリームを食べたり、公園で思い切り走ったり、
そんな小さなことがしたかった。
時々、埋め合わせのように遊園地に連れて行ってもらえることもあった。
でもそれは「一緒に楽しむ」ではなく「連れていかれた」感覚に近かった。
笑い合う記憶よりも、取り残されたような寂しさの方が大きかった。
思い返すと、子どもらしい「安心できる思い出」はほとんどない。
残っているのは、パチンコ台の音とタバコのにおいだけ。
今振り返って思うこと
あの頃、私が欲しかったのは「場所」じゃなくて「一緒に過ごす安心」だった。
行き先がどこであっても、心から「楽しいね」と言える空気があればよかった。
遊びの思い出が少なかったことは、今も心に穴を残している。
けれどその穴を抱えながらも、私は思う。
「これからは自分で安心できる時間を作ろう」と。
温かい飲み物を飲むこと、誰かと笑い合うこと。
小さな積み重ねが、子どもの頃に欲しかった「安心」に少しずつ近づいている気がする。
同じように思い出が欠けているあなたへ
もしあなたも「家族と遊んだ記憶が少ない」と感じているなら、
それはあなたのせいではありません。
楽しい思い出がなかったのは、あなたに価値がなかったからではなく、
周りの大人の事情や未熟さがそうさせただけです。
子どもらしい時間を奪われた寂しさは消えないかもしれません。
でもこれから先の人生で、少しずつ「安心できる時間」を作ることはできます。
あなたは楽しんでいいし、安心していい。
そしてこれからの思い出は、自分で選び取っていいんです。
この記事が、あなたが自分に優しくできるきっかけになれば嬉しいです。


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