遊びの記憶がない幼少期
子どもの頃、友達が家族で遊園地や動物園に行った話をしているのを聞くと、寂しかった。
私にはそういう思い出がほとんどなかったからだ。
休日に「どこかに連れて行ってもらえる」という感覚がなく、
家族と楽しく出かけるという経験は、私の中に空白のまま残っている。
連れて行かれたのはパチンコ屋
外に出かけるといっても、行き先はほとんどパチンコ屋だった。
子どもの私は煙草の煙の中で長時間座らされ、
騒がしい音の中でただ時間が過ぎるのを待つしかなかった。
同じようにパチンコ屋に連れてこられている子供と遊ぶのが唯一の楽しみだった。
それでも一番最後までパチンコ屋にいるのはいつも私だった。
「遊びに行く」ではなく「付き添わされる」感覚。
楽しさよりも退屈さと、いつまで待てばいいのか分からない。
どこか取り残されたような寂しさしか覚えていない。
子どもらしい思い出の欠落
本当は、動物園でアイスを食べたり、公園で思い切り走ったり、
そんな小さなことがしたかった。
でも私の幼少期には、その記憶がほとんど存在しない。
時々埋め合わせのように遊園地に連れていってくれただけましだったのかもしれないが、
見ているだけで一緒に遊んでくれることはなかった。
あるのは、パチンコ台の音と煙のにおいだけ。
子どもらしい「安心できる思い出」が欠けたまま、大人になってしまった。
今振り返って思うこと
あの頃、私が欲しかったのは「場所」ではなく「一緒に過ごす安心」だったのだと思う。
行き先がどこであっても、心から「楽しいね」と言える空気があればよかった。
遊びの思い出が少なかったことは今も心に穴を残している。
けれどその穴を抱えながらも、
「これからは自分で安心できる時間を作ろう」と思えるようになってきた
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